野党勢は、「安倍政権よりももっと好況にします!」ということを訴えないと勝てない。その手段として、「2%インフレに達するまで、日銀の緩和マネーを福祉、医療、教育、子育て支援にどんどんつぎ込みます!」と言わなければならない。
"- オタクが反逆者だったことはあったのか(2)ロマン主義運動については、オタク文化との類似点はいくつも思い付く。特にそのファンタジー趣味な部分については、単に類似しているだけでなく、オタクはロマン主義者の直接的な子孫でもある。
強いて違う点に注目すると、オタクが主知主義的であるのに対して、ロマン主義が直感的、情熱的であるという風に見えるかもしれない。「いかなる普遍的正義も理想も信じない」という態度を、オタクは自らの懐疑的知性の証拠と見るのに対し、ロマン主義者は自らの奔放な生命力の発現と見なす。しかし、こういう自己規定のやり方はともかく、やってることは似かよっている以上、そのやがて辿るべき運命も似通ってくるのではなかろうか。
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"- オタクが反逆者だったことはあったのか(1)およそオタク以前の時代は、知的な大人は現実社会において、社会正義の実現に関心を持たなければならない、という価値観が少くともタテマエとしては主流で、だからこそ大人がフィクションに過度に沈溺することに、世間は否定的だった。少くとも、大人が鑑賞するものには、現実社会の役に立つような、社会性、テーマ性が無ければならないと考えられていた。
そこに、「一般人のくせに社会問題などに関心を持つのは、自分を賢く善良にみせかけようとする賤しい偽善者のすることである、むしろ政治性、テーマ性に逃げずに純粋にメカやら美少女やらを審美的に愛玩する自分達こそ、真に知的な人間だ」という価値観の逆転を持ちこんだのが、オタク文化であり、ここにオタク文化の基本的な精神がある。
今日、大人がマンガやアニメを見ていても特に何もいわれない社会が実現したのは、そういう逆転の成果であった。比較的古参のオタクはしばしば、こういう歴史的経緯をもって、オタクこそ体制に対する反逆者であると規定する。
しかし、これは本当は何に対する反逆だったのだろうか。
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gendai.ismedia.jp
在日生活26年、在日中国人作家・劉燕子さんと、中国を取材・研究するライターの安田峰俊氏。二人はいま、日本のメディアが「親中か」「嫌中か」という二分法でしか中国を論じなくなったことに、強い違和感を覚えています。
劉 いたるところで踏み絵を踏まされるんです。リベラルなら、安倍政権や原発や安保に反対するか。右翼や保守派なら、南京大虐殺や慰安婦問題を否定するか。いわばムラの理屈にフルパッケージで従わないと、ものを言わせてもらえないんです。
これって日本版の言論統制じゃないかしら。中国みたいに党の中央宣伝部が自由な意見の発表を制限しているわけではないのに、自分たち自身で勝手に「正しい言論」を統制するんですよ。そのやり方は目にははっきり見えなくて、すごく陰湿で……。どこに落とし穴や地雷があるのか。外国出身の私の目にはまったく分かりません。
Valdegamas侯日常
製作者側の関心は政治の現場でどうした論理が戦わされ、何が起きるかを描くことではなく、「行政が機能する映像」をスクリーンに映すことにあった。いわばロボットアニメでメカが稼働する様子を精密に描き、それらしさをアピールするように、行政の「リアル」な映像を撮りたかっただけだったのだと思われる。政治の泥臭い心情描写や、駆け引きや、それを粘つくような映像に変換することにはもともと関心がなかったのではないか。
diamond.jp
一般には、冷戦終結後のグローバリゼーションの進展とともに経済の自由競争が過熱し、その結果、経済格差が拡大しているという見方があり、日本も同じ道をたどっていると一般には思われているが、果たして、そうであろうか。データを見る限り、深刻な格差拡大が起こっているようには見えない。
gendai.ismedia.jp
もし、『シン・ゴジラ』を観て、「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」と本当に思ったとすれば、そんなものは虚構のなかにとどめておかなければならない。「失われた20余年」に繰り返されてきたこうした願望の発露は、その実現可能性ではなく、その徹底的な不可能性を示していると考えるべきだ。
"- ロマン主義右翼についてもう少しオタクに対する一般人の素朴な批判として、「空想と現実の区別がついてない」という言葉が昔からある。しかし当たり前だが、アニメやゲームに没頭する人間に「それは現実か?」と聞けば100人が100人、違うと答える。知的認識としては、区別は完全についているのだ。だからオタクはこの種の批判は不当な言いがかりと見なしている。虚偽と完全に知りつつ、それを弄ぶからこそ、オタクにとっての知的ポーズになる。だがこの批判は、そういったオタクの価値観自体に対する直感的な反発をも含むものだと、考えるべきなのだ。
ネット右翼を批判しようとする者は、それを支えている「虚偽こそが知的、現実主義的なものである」というオタク的な価値観をも批判の対象として視野に入れ、対立軸を作り出すべきである。そうしなければ、個別の事実に関して右翼と論争を重ねても、それは十分な効果を持てないし、どちらの方が賢いか、という知恵比べレベルに議論が矮小化されてしまいがちにもなる。
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(Source: slideshare.net)
ファシズムが無理矢理に「国民」を引きずり込んだのではなく、人びとの考え方が排外主義に傾いて、「満州は自分達の領土だ」と思い、そのことをとりこむことによってファシズムが成立していく、ということです。「大正デモクラシー」の過程で成立し、人びとの意見を吸い上げるシステム(その制度化が、普選ですが)によって、戦争の時代になったと私は考えています。「大正デモクラシー」があったが故にファシズムに向かい、戦争の時代になったのです。
markethack.net
英国の中小企業の中からは「EUから色々なルールを押し付けられて、ペーパーワークが半端ない」と不満が出ています。それは僕も困ったことだと思います。
でもだからといってEUから離脱すればペーパーワークから解放されるか? と言えば、それは甘いです。
今度は関税障壁や輸出に際しての書類整備などに追われる可能性が出てくるわけです。
abrahamcow.hatenablog.com
オタクにもヤンキーにもサブカルにもなれなかった、どの輪の中にも入れない究極の落ちこぼれ「どれでもない」層だけが、実ははじめて本義でのメインカルチャーにアクセスする可能性を持っている。
rootport.hateblo.jp
人間は、1人では生きていけない。
誰かと資源の交換ができる人は、それができない人よりも豊かな生活を送れる。
であれば、取引できる相手が多くなるほど、生活の豊かさは指数関数的に向上していくはずだ。人間社会の中心になる人物は、仕事を紹介される機会が多く、商売のチャンスにも恵まれているだろう。一方、末端の人物は、そのような好機に巡り会わず、低い生活水準を余儀なくされるはずだ。
小規模な狩猟採集民族が「原始共産主義」と呼ばれるような平等な社会を作れるのは、関係する人間の数が限られているからだ。数十人規模の集団なら、全員が他の全員と取引をする。物々交換をするし、信用貸しをする。そのような社会では経済的格差は生まれない。人間関係に中心と末端が生じないからだ。
ところが人口が増えると、人間関係にも偏りが生じるようになる。リーダー格の人物はたくさんの人間と取引ができる一方、あまり立場の強くない人物は、わずかな相手としか取引ができないだろう。集団の人口が数百人、数千人の規模まで膨らむと、社会は階層化していき、経済的な格差が生じる。
toyokeizai.net
(1)円安により企業収益が増えたとしても、実質賃金が下がるため国内の消費は冷え込んでしまう。
(2)大企業と中小零細企業、大都市圏と地方といった具合に、格差拡大が重層的に進んでしまう。
(3)米国を除いて世界経済が芳しくない見通しにあるので、円安だけでは輸出は思うように増えない。
(4)労働分配率の見地から判断すると、トリクルダウンなどという現象は起きるはずがない。